『報道ステーション』のフィールドリポーターとして、ニュースの現場に立っている所村武蔵アナウンサー。
しっかりした体格やスポーツへの詳しさを見て、「学生時代は野球をしていたのかな?」「高校や大学はどこなんだろう」と気になった人も多いかもしれません。
所村武蔵さんの出身校は、テレビ朝日の公式プロフィールで星稜高等学校、同志社大学グローバル地域文化学部と公表されています。
さらに本人は、小学校から大学までずっと野球部だったことも明かしています。
- 中学校は大会資料から星稜中学校出身とみられる
- 高校は野球の名門・星稜高等学校
- 大学は同志社大学グローバル地域文化学部
- 小学校から大学まで約15年間、野球を続けた
- 2023年4月にテレビ朝日へ入社した
高校は、全国でもよく知られている野球の名門・星稜高校。
大学でも同志社大学硬式野球部で競技を続けていました。
こうして見ると、かなり華やかな経歴に感じますよね。
ただ、学生時代を詳しくたどってみると、甲子園のベンチに入れなかった経験や、大学で試合に出られない時期、大事な場面でのエラーなど、思うようにいかなかった時間も少なくありません。
むしろ、そうした経験が現在の所村さんの考え方につながっているようです。
ここでは、所村武蔵さんの中学、高校、大学の学歴をたどりながら、野球部時代のエピソードやアナウンサーを目指したきっかけまで見ていきます。
所村武蔵の学歴を一覧で見てみる
まずは、所村武蔵さんの学歴を大きな流れで見てみましょう。
学校名だけを見るより、「どこで何を経験したのか」まで合わせて見ると、現在の所村さんにつながる道筋がわかりやすくなります。
| 時期 | 学校・進路 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 中学 | 星稜中学校とみられる | 高校野球の大会資料に「星稜中」と記載 |
| 高校 | 星稜高等学校 | 硬式野球部に所属 |
| 大学 | 同志社大学グローバル地域文化学部 | 硬式野球部でも競技を継続 |
| 社会人 | テレビ朝日 | 2023年4月1日に入社 |
高校と大学については、テレビ朝日の公式プロフィールに明記されています。
中学校についてはテレビ朝日の公式発表ではありませんが、高校3年夏の大会登録資料に「星稜中」と書かれています。
- 石川県金沢市で育ち、幼いころから星稜高校野球部に憧れていた
- 小学校から大学まで野球を続けた
- 高校3年夏には星稜高校の背番号16で石川大会にベンチ入りした
- 同志社大学でも硬式野球部に所属した
- 大学時代のコロナ禍をきっかけに報道の仕事を意識するようになった
- 2023年4月にテレビ朝日へ入社した
こうして並べると、野球がずっと所村さんの生活の中心にあったことがよくわかりますね。
出身小学校は公表されていない
所村武蔵さんの出身小学校については、学校名まで確認できる公式情報はありません。
石川県金沢市出身であることや、幼いころから父親と星稜高校野球部のグラウンドへ足を運んでいたことは本人が話しています。
ただ、それだけで通っていた小学校までは特定できません。
ネットでは実家周辺から小学校を推測する情報が出ることもありますが、本人やテレビ朝日が公表していない以上、無理に絞り込まないほうが自然ですね。
一方で、小学生のころから野球をしていたことは本人が明かしています。
所村さんは後に、小学校から大学までずっと白球を追いかけていたと振り返っています。
学校名はわからなくても、このころにはすでに野球中心の生活が始まっていたようです。
所村武蔵の中学は星稜中学校とみられる
中学校については、テレビ朝日の公式プロフィールには書かれていません。
ただ、高校野球の当時の資料を見ると、星稜中学校出身と考えられるかなりはっきりした根拠があります。
単なるネット上の噂ではなく、高校3年夏の大会登録情報に出身中学が記載されているんですね。
高校野球の大会資料には「星稜中」と記載
2017年夏、第99回全国高校野球選手権石川大会の星稜高校ベンチ入りメンバーには、所村武蔵さんの名前があります。
そこには、背番号16、3年生、右投げ右打ちという情報とともに、出身中学として「星稜中」と掲載されています。
本人の名前や学年、その後の経歴とも一致しています。
所村武蔵さんは、星稜中学校から星稜高校へ進んだとみられます。
ただし、テレビ朝日の本人プロフィールには中学校名が掲載されていません。「大会資料では星稜中と記載されている」と捉えておくとわかりやすいですね。
中学時代も星稜高校を目指して野球を続けていた
所村さんが星稜高校を意識したのは、中学生になってからではありません。
本人によると、実家の近くに星稜高校があり、幼いころから父親と一緒に野球部のグラウンドへ足を運んでいたそうです。
黄色いユニフォームでプレーする選手たちに憧れ、「いつか星稜で野球をする」と思っていました。
さらに、当時の監督だった山下智茂さんの熱心な指導にも大きな影響を受けています。
現在のテレビ朝日公式プロフィールでも、尊敬する人として両親とともに山下智茂さんの名前を挙げています。
子どものころの憧れが、そのままずっと残っているんですね。
星稜中学校で野球を続けながら、その先にある星稜高校野球部を目指していたと考えると、進学の流れも自然につながります。
所村武蔵の高校は野球の名門・星稜高校
所村武蔵さんの出身高校は、石川県金沢市にある星稜高等学校です。
こちらはテレビ朝日の公式プロフィールにもしっかり書かれています。
星稜高校といえば、高校野球を少しでも見たことがある人なら、一度は名前を聞いたことがある学校ではないでしょうか。
全国大会にも何度も出場してきた強豪校です。
所村さんも、その星稜高校で硬式野球部に所属していました。
ただし、「星稜高校野球部出身だから、甲子園でもプレーしたのでは?」と思うと少し違います。
このあたりは、詳しく見ていくと所村さんの学生時代がよりよく見えてきます。
星稜高校への進学は子どものころからの夢だった
所村さんにとって、星稜高校は単なる進学先ではありませんでした。
本人は幼いころ、父親に連れられて星稜高校野球部の練習を何度も見に行っていたと話しています。
黄色いユニフォーム姿の選手たちを見ながら、「自分もここで野球をしたい」と思うようになりました。
そして、実際にその夢をかなえています。
星稜高校野球部では「人間形成の野球道」という考え方が大切にされています。
所村さん自身も、この教えが人としての土台になったという趣旨の話をしています。
野球がうまくなることだけではなく、人としてどう振る舞うのかまで学ぶ。
この考え方は、今の所村さんにもかなり残っているようです。
ニュースを伝えるときも、自分が目立つことより、取材した相手の気持ちを考えることを大切にしています。
ポジションは外野とファースト
所村さんは、小学校から大学までの野球生活で、主に外野とファーストを守っていたと本人が話しています。
右投げ右打ちです。
高校3年夏の大会資料では、身長177cm、体重80kgと記録されています。
現在もがっしりした体格が印象的ですが、その土台は学生時代の野球でつくられたのかもしれませんね。
星稜高校のような強豪校には、将来プロへ進むような選手も集まります。
その中で試合に出るには、日々の練習だけでなく、チーム内での厳しい競争にも勝たなければなりません。
所村さんも、順調にレギュラーをつかみ続けたタイプではありませんでした。
高校2年夏に星稜は甲子園へ出場したが本人はベンチ外
所村さんが高校2年生だった2016年夏、星稜高校は石川県大会を勝ち抜き、夏の甲子園へ出場しています。
そのため、「所村武蔵さんも甲子園に出た」と思われることがあります。
ただ、当時の甲子園ベンチ入りメンバーを確認すると、所村さんの名前はありません。
- 星稜高校は所村さんの在学中に甲子園へ出場している
- 所村さん本人は、その甲子園大会のベンチ入りメンバーではない
- 選手として甲子園の試合に出場した記録も確認できない
これは少し悔しい経験だったかもしれません。
自分が所属しているチームが甲子園へ進む一方で、自分はベンチに入れない。
高校生にとってはかなり大きな出来事ですよね。
ただ、そこで野球をやめたわけではありません。
翌年の最後の夏には、しっかりベンチ入りを果たしています。
高校3年夏は背番号16でベンチ入り
高校3年生となった2017年夏、所村さんは星稜高校の背番号16として石川大会のメンバーに入りました。
前年の甲子園ではベンチに入れませんでしたが、最後の夏には県大会のベンチ入りをつかんだことになります。
星稜高校はその夏も勝ち進み、準決勝まで進出しました。
対戦相手は日本航空石川。
試合は接戦となり、延長11回の末、星稜が7対8でサヨナラ負けを喫しています。
あと少しで決勝。
そして、その先には甲子園がありました。
所村さんにとって、高校最後の夏は甲子園目前で終わったことになります。
ここまでの流れを見ると、決して順風満帆だったわけではありません。
前年は甲子園のベンチに入れず、最後の夏はメンバー入りしたものの甲子園には届かなかった。
それでも、所村さんの野球人生はここでは終わりませんでした。
厳しい練習の中で仲間と過ごした時間
所村さんは学生時代の練習について、かなり具体的に振り返っています。
- 2000本スイング
- タイヤ押し
- マシンガンノック
- 神社の階段を使ったダッシュ
聞いているだけでも大変そうなメニューですよね。
ただ、本人が特に思い出として挙げているのは、練習のつらさそのものではありません。
仲間と一緒に甲子園や神宮を目指した時間です。
同じ目標を持つ仲間と、毎日練習する。
結果が出る日もあれば、思うようにいかない日もある。
そうした時間を長く経験したことは、今の仕事にもつながっているように感じます。
テレビの仕事も、アナウンサー一人で完成するものではありません。
カメラ、音声、ディレクターなど、多くの人と一緒に一つの放送をつくります。
所村さん自身も、新人研修でミスをしたときに周囲のスタッフへ支えてもらい、「放送はみんなでつくるものだ」と実感したことを話しています。
野球とテレビ。
まったく違う世界に見えますが、チームで動くという点では似ているところがありそうですね。
星稜高校でのコースや入試方法はわかっていない
所村さんが星稜高校でどのコースに在籍していたのかは、公表されていません。
入試方法についても同じです。
野球部だったことから「スポーツ推薦だったのでは?」と考える人もいるかもしれません。ただ、本人や学校が明かしている情報は確認できません。
そのため、スポーツ推薦だったと決めつけるのは避けたほうがよさそうです。
高校の偏差値についても、現在の数字をそのまま所村さん本人の学力として見ることはできません。
確実にわかっているのは、星稜高校に進学し、強豪野球部の中で3年間競技を続けたということです。
所村武蔵の大学は同志社大学グローバル地域文化学部
高校卒業後、所村武蔵さんは同志社大学グローバル地域文化学部へ進学しました。
大学名だけでなく学部名まで、テレビ朝日の公式プロフィールに掲載されています。
そして、大学へ進んでからも野球は続けています。
高校までで一区切りにする人も多い中、所村さんは大学でも硬式野球部に入りました。
大学時代は、野球選手としてチャンスをつかみ始めた時期でもあり、同時にアナウンサーという新しい目標が生まれた時期でもあります。
グローバル地域文化学部で世界や地域について学んだ
同志社大学のグローバル地域文化学部では、外国語だけを学ぶわけではありません。
ヨーロッパ、アジア・太平洋、アメリカなどの地域を軸にしながら、歴史や文化、移民、難民、紛争、環境といった幅広いテーマについて学びます。
異なる文化や社会を理解しながら、世界の問題を考えていく学部ですね。
ただし、所村さんが具体的にどの地域を専攻していたのか、どのゼミに所属していたのかまでは公表されていません。
卒業論文のテーマなどもわかっていません。
そのため、学部全体で扱っている内容と、本人が実際に研究した内容は分けて考えたほうがよさそうです。
アメリカ人の父と日本人の母を持つ
所村さんは、アメリカ人の父親と日本人の母親のもとに生まれました。
本人によると、「武蔵」という名前にも両親の思いが込められています。
宮本武蔵になぞらえ、日本とアメリカという二つの文化を理解できる人になってほしい、という願いから付けられたそうです。
幼いころから英語を話せる環境にいた一方で、母親や祖父母からは日本語も大切にするよう教えられていました。
本人は後に、二か国語を話せること以上に「きれいな日本語を話せること」を大事にするよう言われてきたと振り返っています。
こうした家庭環境とグローバル地域文化学部への進学には、どこかつながりを感じますよね。
ただし、所村さん自身が「家庭環境を理由にこの学部を選んだ」と話したわけではありません。
そこは想像で決めつけず、別々の事実として見ておくのがよさそうです。
同志社大学でも硬式野球を続けた
同志社大学でも、所村さんは硬式野球部に所属しました。
本人は小学校から大学まで野球部だったと話しており、大学野球の公式記録にも所村武蔵さんの名前が残っています。
2021年の関西学生野球春季リーグの登録では、4年生、右投げ右打ち、出身高校は星稜と記録されています。
テレビ朝日入社時にも、学生時代は約15年間野球に打ち込んできたと紹介されていました。
小学生から大学4年生まで。
ほぼ学生生活のすべてを野球とともに過ごしてきたことになりますね。
大学3年秋に公式戦初出場
大学へ進んだからといって、すぐに試合で活躍できたわけではありません。
当時の同志社大学野球部を扱った情報によると、所村さんは大学1年のころから体づくりを続け、3年秋になって公式戦初出場を果たしたとされています。
その翌日の近畿大学戦では、公式戦初安打も記録。
さらに複数安打を放ったことが紹介されています。
入学してから公式戦に出るまで、かなり時間がかかっています。
高校でも甲子園のベンチには入れず、大学でもすぐに試合へ出られなかった。
それでも野球を続けています。
このあたりを見ると、所村さんは「すぐ結果が出なければやめる」というタイプではなさそうですね。
大学4年春にもリーグ戦へ出場
大学4年生となった2021年春にも、所村さんが関西学生野球リーグの試合に出場した記録があります。
関西大学戦などで代打として打席に立っています。
目立つような数字が並んでいるわけではありません。
ただ、星稜高校から同志社大学というレベルの高い環境で、4年生まで硬式野球を続けて公式戦メンバーに残っていたことは、それだけでも簡単なことではないでしょう。
本人は一時期、プロ野球選手を目指していたことも明かしています。
野球への思いは、かなり強かったようです。
大学3年秋のエラーがその後の考え方を変えた
所村さんの学生時代を知るうえで、特に印象に残るエピソードがあります。
大学3年秋のリーグ戦でのエラーです。
その日の先発投手は、誕生日を迎えた親友でした。
9回まで好投を続け、初完封勝利が目前に迫っていました。
ところが9回裏2アウト二塁。
所村さんのエラーが失点につながってしまいます。
本人はこの一球について、自分の運命や感情、野球に対する考え方まで変えた忘れられない出来事だったと話しています。
「勝つ人がいれば、その裏には負ける人がいる。笑顔の裏側には、悔しくて泣いている人もいる」
所村さんは野球での経験を通じて、さまざまな立場の人の気持ちを考えるようになったようです。
自分の一つのミスで、仲間の勝利まで消してしまう。
かなり苦い経験だったはずです。
でも、所村さんはこの失敗を単なる後悔で終わらせていません。
そして今は、ニュースを伝えるときにも、できるだけいろいろな立場の人の気持ちを考えたいと話しています。
学生野球でのエラーが、現在のアナウンサーとしての姿勢につながっているんですね。
コロナ禍がアナウンサーを目指すきっかけになった
大学時代には、新型コロナウイルスの感染拡大もありました。
所村さんにとって、この時期は進路を考える大きなきっかけになっています。
部活動ができなくなり、それまで当たり前だった日常が突然止まりました。
そんな中で「社会に本当に必要な仕事とは何だろう」と考えるようになり、情報を届け続ける報道機関の存在を強く意識したそうです。
そこで思い浮かんだのが『報道ステーション』でした。
もともと所村さんは、古舘伊知郎さんの伝え方に憧れていました。
日本語を母語としない父親と一緒に『報道ステーション』を見た経験も、強く印象に残っていたといいます。
野球選手を目指していた所村さんが、ここで「伝える仕事」へ目を向け始めました。
大学生活は、野球人生の終盤であると同時に、アナウンサーへのスタート地点でもあったわけです。
同志社大学への入試方法は公表されていない
所村さんが同志社大学へどの方法で入学したのかは、明らかになっていません。
野球部出身という経歴から、スポーツ推薦だったのではないかと考える人もいるかもしれません。
一般入試だったのか、推薦だったのか、スポーツ関係の選抜だったのかは公表されていません。
本人や大学、テレビ朝日が入試方法を公表した記録は確認できません。
同志社大学グローバル地域文化学部へ進学したことは確かですが、そこから先は推測しないほうがよさそうですね。
偏差値だけで本人の学力はわからない
同志社大学と聞くと、偏差値や難易度が気になる人もいると思います。
ただ、偏差値は年度や入試方式、模試会社によって数字が変わります。
さらに、所村さん本人がどの入試方式を使ったのかも公表されていません。
そのため、現在の偏差値を見て「所村武蔵さんの学力はこのくらい」と考えるのは少し無理があります。
むしろ注目したいのは、同志社大学で学びながら体育会の硬式野球部を続けていたことです。
授業と部活動を続け、その途中からアナウンサーという新しい進路にも挑戦しています。
大学生活そのものは、かなり忙しかったのではないでしょうか。
大学卒業後からテレビ朝日入社まで
同志社大学で野球生活を終えた所村さんは、最終的にテレビ朝日のアナウンサーになりました。
テレビ朝日の公式プロフィールでは、入社日は2023年4月1日となっています。
ここで少し気になるのが、大学卒業から入社までの期間です。
ネット上ではいくつか情報が出ていますが、本人やテレビ朝日の説明はそれほど詳しくありません。
2023年4月にテレビ朝日へ入社
所村さんは2023年4月1日、テレビ朝日に入社しました。
入社後の新人インタビューでは、ジャンルを問わず人の喜怒哀楽を伝えられるアナウンサーになりたいと話しています。
そして、いつか報道の第一線に立ちたいという目標も語っていました。
大学野球で経験した「勝つ人と負ける人、どちらにも感情がある」という考え方が、ここでも感じられます。
話す技術だけではなく、人の気持ちをどう受け取るか。
所村さんは、そこを大切にしているようです。
大学卒業から入社までの詳しい経緯は公表されていない
所村さんは2021年度の大学野球で4年生として登録されています。
通常どおり進級していれば、2022年春ごろに大学を卒業する時期になります。
一方、テレビ朝日への入社は2023年4月です。
このため、一部のプロフィール記事では「大学卒業後に1年間就職活動を続けた」と紹介されています。
ただし、本人やテレビ朝日の公式情報で、その期間について詳しく説明されたものは確認できません。
大学の卒業年月そのものも、公式プロフィールには書かれていません。
「1年間就職浪人をした」と断定するより、卒業後からテレビ朝日入社までの詳しい経緯は公表されていないと見ておくほうが自然です。
所村武蔵がアナウンサーを目指した理由
所村さんの学歴をたどっていくと、野球からアナウンサーへ急に方向転換したわけではないことが見えてきます。
家庭で育まれた言葉への意識。
大学野球で感じた勝つ側と負ける側、それぞれの感情。
そして、コロナ禍で改めて感じた報道の必要性。
いくつもの経験が少しずつ重なって、アナウンサーという仕事につながっていったようです。
幼いころから日本語を大切にしてきた
所村さんの父親はアメリカ人です。
そのため、幼いころから英語に触れる環境で育ちました。
ただ、母親や祖父母からは、英語を話せることだけではなく、日本語をきちんと使うことも大切だと教えられていたそうです。
本人は後に、二か国語を話せること以上に「きれいな日本語を話すこと」を大事にするよう言われてきたと振り返っています。
そう考えると、日本語を使って物事を伝えるアナウンサーという仕事に惹かれたのも、どこか自然に感じますね。
コロナ禍で報道の必要性を実感した
大学時代、部活動ができなくなったコロナ禍。
それまで野球中心だった生活が止まり、所村さんは社会に必要な仕事について考えるようになりました。
そんな中でも、テレビや報道機関は情報を伝え続けていました。
その姿を見て、「伝える仕事」の大切さを強く感じたといいます。
スポーツでは自分自身がプレーヤーです。
一方、アナウンサーは誰かの出来事や感情を受け取り、それを別の人へ伝えます。
大学野球を通じて人の喜びや悔しさを身近に見てきた所村さんにとって、報道の仕事にはそれまでの経験を生かせる部分もあったのではないでしょうか。
憧れていた番組は『報道ステーション』
所村さんがアナウンサーを目指すうえで、大きな存在だったのが『報道ステーション』です。
特に古舘伊知郎さんの伝え方に憧れていました。
ドイツからのリポートを父親と一緒に見たことも、強く記憶に残っているそうです。
日本語を母語としない父親にも伝わるリポート。
そこで所村さんは、「伝わる言葉」の力を感じたのかもしれません。
そして現在、所村さん自身が『報道ステーション』のフィールドリポーターを務めています。
大学時代に憧れていた番組に、自分が取材する側として加わっているわけです。
少し不思議な巡り合わせですよね。
野球一筋の学生時代から見える所村武蔵の性格
所村さんの人柄を知りたいなら、学校名だけを見るより、学生時代のエピソードを追ったほうがわかりやすいと思います。
約15年間も野球を続けたこと。
高校では甲子園のベンチに入れなかったこと。
大学でもすぐに試合に出られなかったこと。
そして、自分のエラーを今も忘れずにいること。
そこから、所村さんらしい性格が少し見えてきます。
結果が出るまで続ける粘り強さ
所村さんの野球人生は、ずっと順調だったわけではありません。
高校2年の夏は、チームが甲子園へ行ったのに自分はベンチ外。
高校3年の最後の夏にはベンチ入りしましたが、県大会準決勝で敗れました。
大学に進んでも、すぐ公式戦へ出られたわけではありません。
それでも辞めずに続け、大学3年秋になって公式戦でチャンスをつかんでいます。
こうして見ると、すぐに結果が出なくても続けられるところは、所村さんの大きな特徴でしょう。
アナウンサーになってからも、毎日の仕事の中で新しい課題が見つかることを前向きに捉えています。
野球の練習と同じように、一つずつできることを増やしていくタイプなのかもしれません。
周囲からは物腰の柔らかい人と見られている
所村さんは体格もしっかりしていて、長く体育会で過ごしてきた人です。
ただ、周囲からの印象は意外とやわらかいものです。
同期の荒井理咲子アナウンサーからは、場を和ませるような「愛されキャラ」として紹介されています。
新人研修を担当した先輩アナウンサーからも、人柄の良さや腰の低さを評価されていました。
体は大きいけれど、物腰は柔らかい。
そんな印象を持たれているようですね。
星稜高校時代に学んだ「人間形成の野球道」も、こうした接し方に少なからず影響しているのかもしれません。
失敗をそのままにしない
所村さんのエピソードでは、成功した話より、失敗したときにどう考えたかのほうが印象に残ります。
大学3年秋のエラーもそうです。
アナウンサーになってからも、初めて大雨の現場リポートをした際、カメラを向けられて言葉が出ず、数十秒間黙ってしまった経験を明かしています。
現場では、自分が話さなければ何も視聴者へ伝わりません。
その当たり前のことを、実際の失敗を通して痛感したそうです。
新人研修の卒業制作でも大きなミスを経験しています。
それでも、最後まで伝えようとした姿勢は先輩から評価されました。
野球でも放送でも、失敗した事実そのものは消せません。でも、そこから何を受け取るかは自分で変えられます。
所村さんは、そうやって一つずつ経験を次につなげてきた人のように見えます。
学生時代の経験は現在の仕事にもつながっている
野球とニュース取材は、まったく違う仕事に見えます。
でも、所村さんの学生時代を知ったあとで現在の仕事を見ると、意外と共通点があります。
どちらもその場の状況がどんどん変わります。
周りを見ながら判断し、チームで動き、自分の役割を果たさなければなりません。
学生時代に身につけたことは、形を変えながら今も生きているようです。
入社1年目から現場リポートを経験
所村さんがアナウンサーとして最初に担当した番組は『スーパーJチャンネル』でした。
入社間もないころには、大雨の現場からのリポートも経験しています。
そこで、カメラを向けられた瞬間に言葉が出なくなるという失敗をしました。
研修でできていても、現場でできなければ視聴者には届きません。
この経験をきっかけに、研修への向き合い方も変わったそうです。
練習ではできても、本番ではできないことがある。
これは、長く野球をしてきた所村さんなら、よく知っている感覚だったかもしれませんね。
能登半島地震では故郷の石川県で取材
2024年1月1日に能登半島地震が起きたとき、所村さんは正月休みで金沢市の実家に帰っていました。
地震のあと、家族の無事を確認すると北陸朝日放送へ向かい、取材クルーと合流。
そのまま能登へ向かったと本人が話しています。
普段なら約2時間ほどの道のりに、約6時間かかったそうです。
つい数日前まで普通に通れていた道路の風景が、大きく変わっていました。
地元・石川県で起きた災害を、自分がアナウンサーとして全国へ伝える。
大学時代に「報道は社会に必要な仕事だ」と感じてこの道を選んだ所村さんにとって、忘れられない現場になったのではないでしょうか。
将来の夢の一つは野球実況
所村さんにとって、野球は大学を卒業して終わったものではありません。
今度はアナウンサーとして野球に関わりたいと話しています。
特に夢として挙げているのが、野球実況です。
星稜高校時代から大きな影響を受けた山下智茂さんと一緒に、甲子園を伝えたいという思いも明かしています。
高校時代、自分自身は甲子園のベンチには入れませんでした。
だからこそ、甲子園でプレーしている選手だけでなく、そこへ届かなかった選手の気持ちも想像できるのかもしれません。
かつて選手として目指した甲子園。
次は「伝える側」として立つことができたら、所村さんにとって特別な瞬間になりそうですね。
所村武蔵の学歴で間違えやすいポイント
所村武蔵さんについて調べていると、公式情報とネット上の推測が混ざっていることがあります。
特に学歴では、「星稜だから甲子園に出たはず」「野球部だからスポーツ推薦だったはず」と考えやすいところがあります。
ここは、よく気になるポイントを分けて見てみましょう。
中でも間違えやすいのは、やはり甲子園ですね。
星稜高校は所村さんが高校2年生だった2016年夏に甲子園へ出ています。
ただ、その大会のベンチ入り選手に所村さんの名前はありません。
翌2017年夏には背番号16で石川大会にベンチ入りしましたが、準決勝で敗れて甲子園出場は逃しています。
そのため、「星稜高校野球部出身」は正しいものの、「甲子園出場選手」という紹介は避けたほうがよさそうです。
所村武蔵の学歴をたどると現在の姿が見えてくる
所村武蔵さんの学歴は、テレビ朝日の公式情報では星稜高校から同志社大学グローバル地域文化学部という流れです。
中学校については、高校3年夏の大会資料に「星稜中」と記録されているため、星稜中学校出身とみられます。
ただ、所村さんの学生時代で面白いのは、学校名そのものより、その間に経験した出来事です。
幼いころ、父親と一緒に星稜高校のグラウンドを見に行き、黄色いユニフォームに憧れました。
その夢をかなえて星稜高校野球部へ入りましたが、高校2年夏の甲子園ではベンチに入れませんでした。
高校3年の最後の夏には背番号16をつけたものの、甲子園を目前に県大会準決勝で敗退。
それでも野球をやめず、同志社大学へ進んでも硬式野球部で競技を続けました。
大学でもすぐに公式戦へ出られたわけではありません。
地道に体づくりを続け、3年秋になってようやく公式戦出場のチャンスをつかんでいます。
その一方で、親友が投げる試合では、自分のエラーが失点につながる苦い経験もしました。
所村さんは、その失敗から「勝つ人の裏には負ける人がいる」ということを強く意識するようになったと話しています。
そして大学時代のコロナ禍で、社会へ情報を届ける仕事の大切さに気づきました。
2023年にテレビ朝日へ入り、現在はかつて憧れていた『報道ステーション』でフィールドリポーターを務めています。
こうして振り返ってみると、所村さんの学歴は、きれいな成功だけが並んだ経歴ではありません。
- 甲子園のベンチに入れなかったこと
- 高校最後の夏に甲子園へ届かなかったこと
- 大学でなかなか公式戦へ出られなかったこと
- 大切な試合でエラーをしたこと
そうした経験を一つずつ抱えながら、それでも前へ進んできました。
だからこそ、今の所村さんが「人の気持ちを考えること」や「相手に寄り添う言葉」を大事にしているのも、どこか納得できます。
星稜で学んだ野球への向き合い方。
同志社大学で過ごした4年間。
そして約15年間続けてきた野球。
所村武蔵さんの学歴を詳しく見ていくと、現在のアナウンサーとしての姿は、突然できあがったものではないことがわかります。
学生時代に積み重ねてきた成功も悔しさも、今の仕事につながっているのでしょう。
これから報道の現場でさらに経験を重ねながら、本人が夢として語っている野球実況にも携わる日が来るのかもしれません。
選手としては届かなかった甲子園を、いつかアナウンサーとして伝える。
そんな場面が見られたら、学生時代から続いてきた所村さんの野球人生も、また新しい形でつながっていきそうですね。
