TeNYテレビ新潟のアナウンサーとして活動している蛯原大河さん。
父が日本テレビのスポーツアナウンサー・蛯原哲さんということもあり、親子で注目される機会が増えています。
そんな蛯原大河さんについて、「どこの大学を卒業したの?」「高校や中学校はどこ?」「学生時代から野球をしていたの?」と気になっている人も多いようです。
学歴をたどってみると、成城学園中学校、成城学園高等学校を経て、早稲田大学スポーツ科学部へ進学しています。
大学へは一般選抜で進み、早稲田大学では準硬式野球部に所属しました。
さらに大学1年次には、体育各部に所属する学生の中で学業成績上位10%に入る表彰も受けています。
野球に打ち込みながら、勉強もしっかり続けていた学生だったことが分かります。
- 蛯原大河さんの小学校・中学校・高校・大学
- 成城学園から早稲田大学へ進んだ理由
- 早稲田大学の入試方法と学業成績
- 中学・高校・大学で続けた野球歴
- 学生時代の人柄と現在の仕事とのつながり
ここからは、小学校時代から大学までの歩みを追いながら、進学理由や野球部での活動、周囲から見た人柄まで詳しく見ていきましょう。
蛯原大河の学歴一覧
まずは、これまでに確認されている蛯原大河さんの学歴を整理してみます。
本人は大学時代、早稲田大学準硬式野球部のブログで自分の野球人生を振り返っています。
そこには中学や高校、大学だけでなく、それぞれの進路を選んだ理由まで書かれていました。
| 学校段階 | 学校名 | 主な学生時代 |
|---|---|---|
| 小学校 | 学校名は公表確認できず | 小学2年生から野球 |
| 中学校 | 成城学園中学校 | 野球部・中学3年で副将 |
| 高校 | 成城学園高等学校 | 硬式野球部・三塁手 |
| 大学 | 早稲田大学スポーツ科学部 | 準硬式野球部・副将 |
こうして並べると、成城学園から早稲田大学へ進んだ学歴が目に入ります。
ただ、蛯原大河さんの場合は、学校名だけを見ても人物像はなかなか見えてきません。
むしろ興味深いのは、その途中で何を考え、どんな選択をしてきたかです。
- 小学2年生から大学4年まで約15年間野球を継続
- 中学受験で成城学園中学校へ進学
- 成城学園高等学校でも硬式野球部でプレー
- 成城大学への推薦進学ではなく早稲田大学を受験
- 早稲田大学には一般選抜で入学
- 大学では学業成績上位10%に入り、準硬式野球部では副将も経験
特に印象的なのが、中学受験の頃と高校卒業時で進路に対する考えが大きく変わっていることです。
小学生の頃には、できれば大学受験をしたくないという気持ちもあって成城学園を選びました。
ところが高校生になると、自分から早稲田大学を目指すようになります。
少しずつやりたいことが見えてきて、そのたびに進む道を選び直していたのですね。
出身小学校の学校名は公表されていない
蛯原大河さんの出身小学校については、具体的な学校名まで確認できる情報は見つかっていません。
一方で、小学生時代の野球については本人が詳しく振り返っています。
蛯原さんは小学2年生のとき、地元である東京都練馬区の少年野球チームに入りました。
父は野球経験者、母はソフトボール経験者だったそうで、もともとスポーツが身近な家庭だったようです。
最初はサードやショートを守り、その後は投手も経験しました。
本人によると、当時は体が小さく、球速もそれほど速くなかったとのこと。
そこで父と一緒に一塁への牽制球を何度も練習したそうです。
力で押すのが難しいなら、別のところを磨く。
小学生ながら、自分にできることを考えていた様子が伝わってきます。
6年生になると、部員不足から合同チームで大会へ出場。
そこでは主将、エース、4番を任されました。
人数の多い強豪チームでプレーしていたわけではありません。
それでも中心となってチームを引っ張った経験は、その後の中学や大学で副将を務める姿にもつながっているように感じます。
蛯原大河の中学校は成城学園中学校
蛯原大河さんは小学校卒業後、中学受験をして成城学園中学校へ進学しました。
ここで面白いのが、成城学園を選んだ理由です。
将来の仕事まで考えた進学というより、当時の本人らしい率直な考えがきっかけでした。
中学受験と野球を両立して成城学園へ進学
蛯原大河さんは少年野球を続けながら、中学受験の勉強にも取り組んでいました。
本人によると、成城学園を選んだ理由の一つは「大学受験をしたくない」という気持ちだったそうです。
成城学園には成城大学への推薦進学制度があります。
そのため小学生の頃は、中学から高校、大学までつながっている環境に魅力を感じていたのでしょう。
成城学園は「大学付属校」と単純に表現すると少し違います。
成城学園中学校高等学校は、学校側の説明では学校の成り立ちとして大学付属の中高ではありません。一方で、一定の条件を満たせば成城大学へ推薦で進学できる制度が整っています。
蛯原さん本人は大学時代のインタビューで「大学の付属校」と表現していますので、本人の感覚としては「大学まで進める学校」という意識が強かったのでしょう。
成城学園中学校では野球部に入り副将を務めた
中学校へ進んでも、野球はそのまま続けています。
本人は当初、軟式野球をするつもりだったそうです。
ところが当時の成城学園中学校野球部はボーイズリーグに所属していました。
初めて試合を見たときには、金属バットの音やボールの違いに驚いたと振り返っています。
中学生になり、本格的な硬式野球の世界へ入ったわけですね。
中学3年生になると、副将を任されました。
当時の部員は20人に満たなかったそうです。
小学生の頃と同じく、人数の多いチームではありませんでした。
本人は、何とか1勝することを目標に練習していた時期だったと振り返っています。
勝利を重ねる強豪校の野球部とは少し違う環境です。
その分、一人ひとりが担う役割は大きかったのではないでしょうか。
大学では逆に、大人数の部員がいる環境に入ります。
この中学時代との違いが、後に「チームを支える側」の大切さを知るきっかけにもなっていきました。
蛯原大河の高校は成城学園高等学校
中学校卒業後は、そのまま成城学園高等学校へ進学しています。
高校でも野球を続け、硬式野球部に所属しました。
3年間、主にサードとしてプレーしています。
高校3年間はサードとして試合経験を積んだ
蛯原大河さんは成城学園高等学校で三塁手を務めていました。
本人の振り返りによると、部員数はそれほど多くなく、3年間にわたってベンチ入りすることができたそうです。
そのため、高校時代には多くの実戦経験を積みました。
全国大会に何度も出るような強豪校ではありませんでしたが、試合に出ながら野球を学べたことは大きかったでしょう。
今のスポーツを伝える仕事を考えると、実際の試合で打席に立ち、守備につき、勝ち負けを経験してきたこと自体が貴重な土台になっているように見えます。
高校2年時には西東京大会で2安打を記録
高校時代のプレーについては、本人の回想だけでなく当時の報道にも記録が残っています。
2019年7月、蛯原大河さんは高校2年生として第101回全国高校野球選手権西東京大会に出場しました。
スポーツ報知では、この試合で2安打を放ったことが伝えられています。
3回には左前安打を記録していました。
この試合には、父の蛯原哲アナウンサーも応援に訪れていました。
大河さん本人も、試合中に父の声が聞こえていたと話しています。
今では同じアナウンサーという仕事に就いている親子ですが、この頃はまだ「高校球児の息子を父が応援する」という関係でした。
そう考えると、少し不思議な感じもしますね。
高校最後の夏は桜美林高校に敗れて引退
高校最後の夏、成城学園は独自大会の3回戦で桜美林高校と対戦しました。
結果は4対8。
ここで蛯原大河さんの高校野球は終わりました。
ただ、野球そのものをやめる気持ちはなかったようです。
本人は大学時代のインタビューで、大学でも野球には真剣に取り組みたかったため、野球サークルという選択肢は考えていなかったと話しています。
遊びとして続けるのではなく、大学でも競技として野球に向き合いたかったのですね。
成城大学への推薦進学ではなく早稲田大学を目指した
蛯原大河さんの学歴で大きな転機になったのが、大学進学です。
中学受験をした頃には、大学受験をしなくてもよい環境を求めて成城学園へ進みました。
ところが高校生になると、気持ちが変わります。
本人は大学4年時の文章で、「W」への思いを諦められなかったと振り返っています。
この「W」は早稲田大学です。
早稲田大学を目指した理由は、単なる学校名への憧れだけではありませんでした。
本人のインタビューによると、進学先として考えられる大学には、自分が学びたかったスポーツ科学の環境がなかったそうです。
それに加えて、早稲田大学のユニホームを着て野球をしたいという思いもありました。
- スポーツ科学を学びたい
- 早稲田大学で野球をしたい
この二つが進学の大きな理由だったことになります。
小学生の頃には避けたいと思っていた大学受験。
それでも、自分のやりたいことが見えてくると一般選抜へ挑戦する道を選びました。
考えが変わったことを無理に否定せず、そのときの目標に合わせて進路を変えているところも蛯原さんらしい部分かもしれません。
蛯原大河の大学は早稲田大学スポーツ科学部
高校卒業後、蛯原大河さんは早稲田大学スポーツ科学部へ進学しました。
大学時代については本人や部活動の記録が多く残っているため、学生時代の様子がかなり具体的に分かります。
一般選抜での入学、学業成績での表彰、準硬式野球部での活動、データ班、副将、海外遠征。
現在の仕事につながっているように感じられる経験も少なくありません。
早稲田大学には一般選抜で合格
蛯原大河さんはスポーツ推薦で早稲田大学へ進学したわけではありません。
本人によると、共通テストと小論文を使う一般選抜で入学しています。
高校まで長く野球を続けていたため、スポーツ推薦だったのではと思う人もいるかもしれません。
ただ、本人自身が一般選抜だったことを明かしています。
そして、この入試方法は大学に入ってからの考え方にも影響したようです。
蛯原さんは「一般入試で入った以上、学業をおろそかにしたくなかった」という趣旨の話をしています。
大学に合格したことで満足するのではなく、入学後もしっかり勉強しようと考えていたのですね。
スポーツ科学部を選んだ理由は学問と野球の両方
早稲田大学の中でも、蛯原さんが選んだのはスポーツ科学部でした。
理由の一つは、高校まで長く続けてきたスポーツを大学で専門的に学びたかったからです。
もう一つが、早稲田大学のユニホームを着て野球を続けたいという思いでした。
競技と勉強のどちらかではなく、両方を大学生活の中で続けられる環境を求めていたようです。
現在はスポーツに関わる仕事をしていますから、結果的には大学で学んだ分野と今の仕事にもつながりがあります。
大学時代のゼミや卒業論文のテーマまでは公表されていません。
スポーツメディアを専門に研究していた、といった情報も確認できないため、その部分は事実と推測を分けて見ておいたほうがよさそうです。
大学1年次は学業成績上位10%に入った
大学時代の蛯原大河さんを語るうえで、見逃せないのが学業成績です。
2022年、早稲田大学準硬式野球部は、蛯原さんが「早稲田アスリートプログラム 年間優秀学業成績個人賞」に選ばれたことを発表しています。
対象になったのは大学1年次の成績でした。
早稲田大学競技スポーツセンターによると、この賞は一定の単位数を取得した学生のうち、その年度のGPAが体育各部所属学生の各学年上位10%に入った人を対象としています。
つまり、野球部の活動を続けながら、大学の授業でもかなり良い成績を残していたことになります。
「学業をおろそかにしたくない」と話していた本人の言葉が、実際の結果にも表れていたわけですね。
一般選抜で早稲田大学へ合格したことだけでも目を引きます。
ただ、入学後も勉強を続けていたところまで見ると、蛯原さんの学生生活への向き合い方がより分かりやすくなります。
早稲田大学では準硬式野球部を選んだ
大学でも本気で野球を続けたいと考えた蛯原大河さんは、早稲田大学準硬式野球部へ入りました。
ただ、最初から準硬式野球部に決めていたわけではありません。
早稲田大学の硬式野球部も見学しています。
本人は後に、硬式野球部の練習を見て自分の実力との差を感じたことを振り返っています。
そのうえで、「自分が選手として活動できるのは準硬式野球部」と考えました。
憧れだけで進路を決めるのではなく、自分が実際にプレーできる環境を選んだのですね。
また、準硬式野球部なら学業との両立もしやすいと考えていました。
競技も勉強も続けたい。
そんな本人の希望に合っていたのが準硬式野球部だったようです。
準硬式野球部のレベルの高さにも驚いた
準硬式野球部を選んだからといって、簡単にレギュラーになれたわけではありません。
体験会に参加した蛯原さんは、選手たちの肩の強さやキャッチボールの質を見て、そのレベルの高さに驚いたそうです。
中学や高校では部員数が少なく、試合へ出る機会が比較的多い環境でした。
ところが大学では、多くの部員の中でポジションを争うことになります。
ここで蛯原さんは、高校までとはまったく違う経験をします。
自分が試合に出ることだけではなく、試合に出る選手を支える役割の大切さを知ったのです。
この経験は、大学生活の中でもかなり大きかったようです。
先輩から「真面目で寡黙」と評価されていた
蛯原大河さんの人柄を知るうえで興味深いのが、上級生からの評価です。
大学1年時の蛯原さんについて、準硬式野球部の先輩は、練習への取り組みが真面目で、寡黙に黙々と取り組むタイプだと話していました。
本人が自分で「真面目」と話したわけではなく、一緒に練習していた先輩からそう見られていたところが印象的です。
大学1年次には学業成績でも上位10%に入っています。
野球でも勉強でも、派手に目立つというより、日々の積み重ねを大切にする学生だったのでしょう。
大学2年時には、目指す選手像について「100%の信頼を得られる守備」と語っていました。
ホームランをたくさん打ちたい、スターになりたい、という言葉ではありません。
守備で信頼される選手になりたいという考え方にも、蛯原さんらしさが出ています。
大学野球では選手以外の立場も経験
早稲田大学での4年間は、試合に出る選手としてだけでは終わりませんでした。
人数の多いチームに入ったことで、高校まで経験したことのなかった役割にも関わるようになります。
その一つが、データ班です。
全日本選手権ではデータ班としてチームを支えた
2023年の全日本大学準硬式野球選手権では、蛯原大河さんはデータ班としてAチームに帯同しました。
相手チームの試合を偵察し、データを集め、対策ミーティングにも参加しています。
本人は、この経験を通じてデータ班のやりがいを強く感じたと振り返っています。
選手であれば、当然ながら自分が試合に出たいという気持ちはあったでしょう。
実際、大学4年時には試合へなかなか出られなかった悔しさについても書いています。
それでも、出場できない時間にチームのためにできることを探していました。
相手を見て、情報を集め、整理して、仲間へ伝える。
今のスポーツ取材や実況にも少し通じるものを感じますね。
もちろん、この経験が直接アナウンサーになった理由だったとまでは言えません。
ただ、スポーツを「プレーする側」と「分析する側」の両方から見たことは、現在の仕事でも生きている可能性がありそうです。
大学3年時に東京六大学秋季リーグ優勝を経験
大学3年生だった2023年には、早稲田大学準硬式野球部が東京六大学秋季リーグで優勝しています。
優勝後のインタビューで蛯原さんは、自分たち3年生だけの力ではなく、4年生がいたからこその優勝だったという趣旨の話をしていました。
自分たちの学年が中心となって結果を残した場面でも、上級生への感謝を忘れていません。
小学生や中学生の頃には人数の少ないチームで中心選手としてプレーしていました。
一方で大学では、試合に出る選手だけでなく、先輩や後輩、データ班、スタッフなど多くの人が関わる大きな組織を経験しています。
その中で、チームが勝つためにはさまざまな役割が必要だと実感したのでしょう。
後に自分の野球人生を「仲間に恵まれた15年」と振り返っていることにも、その考え方が表れています。
大学3年時にはオーストラリア遠征へ参加
2023年には、早稲田・慶應・法政の準硬式野球部によるオーストラリア遠征にも参加しました。
遠征前の事前学習では、蛯原大河さんが「オーストラリアのメディア/テレビについて」をテーマに発表しています。
今の仕事を知ってから見ると、大学3年時にテレビやメディアをテーマに選んでいたことは少し気になりますね。
ただ、この発表だけをもって「大学ではメディアを専門的に学んでいた」と考えることはできません。
確認できるのは、あくまで遠征前の事前学習で扱ったというところまでです。
遠征では現地チームとの試合にも出場しました。
アデレードジャイアンツとの対戦や、シドニーで行われた早慶戦も経験しています。
海外の野球では、試合中に音楽が流れることや、日本とは違う試合前の流れなどにも驚いたそうです。
現地の子どもたちとキャッチボールをする機会もありました。
野球を続けてきたからこそ、日本とは違う文化に触れることができた経験だったのですね。
大学では中学に続いて副将を務めた
蛯原大河さんは早稲田大学準硬式野球部で副将も務めています。
中学3年時にも副将を経験しているため、学生時代に複数回、チームを支える立場を任されてきました。
ただ、大学最後の年は順調なことばかりではありません。
大学では試合に出られない時期があり、4年時には肩の痛みも抱えていました。
それでも、副将として最後までチームに関わり、日本一を目指す気持ちを書き残しています。
「試合に出て活躍した」という結果だけを見ると、大学時代は華やかではなかったかもしれません。
その一方で、試合に出られないときにも役割を見つけてチームに残り続けた経験は、本人にとって大きかったのではないでしょうか。
蛯原大河の学歴と野球歴から見える性格
学歴は学校名を見るだけでは、その人がどんな学生だったのかまではなかなか分かりません。
蛯原大河さんの場合は、本人が大学時代に多くの文章を残しています。
さらに先輩からの評価もあるため、学生時代の人柄が少し見えやすい人物です。
コツコツ積み重ねる真面目なタイプ
大学の先輩からは、真面目で寡黙に練習するタイプと評価されていました。
その印象は学業面とも重なります。
一般選抜で早稲田大学へ入り、学業をおろそかにしたくないと考え、実際に1年次には上位10%の成績を残しています。
野球も小学2年生から大学4年まで約15年間続けました。
さらに現在のTeNY公式プロフィールでは、特技に書道8段を挙げています。
野球、勉強、書道。
分野は違いますが、どれも短期間で身につくものではありません。
何かを始めたら、長く続けながら少しずつ積み上げていくタイプなのかもしれませんね。
自分の実力を冷静に見て進路を選んでいる
蛯原さんの学生時代を見ると、自分の状況をかなり冷静に判断していたことも分かります。
早稲田大学では硬式野球部への憧れがありました。
それでも実際の練習を見て、自分が選手として競技を続けるなら準硬式野球部だと考えています。
準硬式野球部を選んだからといって、簡単な道を選んだわけではありません。
入部後にはレベルの高さに驚き、レギュラー争いにも苦労しました。
それでも4年間続けています。
大切なのは、「硬式野球部へ入る」という形にこだわるのではなく、「早稲田大学で本気で野球を続ける」という目的に合う場所を選んだところでしょう。
大学進学も似ています。
小学生の頃には大学受験を避けたいと思っていました。
でも高校生になり、スポーツ科学を学びたいと思えば受験へ挑戦する。
最初に決めたことに無理に縛られず、その時点で自分がやりたいことを選び直していたのですね。
自分が目立たなくてもチームを支えられる
高校までは試合に出場する機会の多かった蛯原さん。
大学へ進むと、初めて大人数の中でポジションを争うことになります。
その中で、試合へ出る選手を支える人の存在を知りました。
全日本選手権ではデータ班として相手を分析。
4年時には副将としてチームを支えています。
- 選手としてプレーする
- 副将として周囲を見る
- データ班として相手を分析する
- 試合に出られない時期にもチームに関わる
同じ野球でも、大学ではさまざまな立場を経験しています。
スポーツを伝える現在の仕事を考えると、選手の立場だけでなく、周囲で支える人たちのことも知っているのは一つの強みになりそうです。
周囲への感謝をよく言葉にしている
蛯原大河さんの大学時代の文章を読むと、周囲への感謝がよく出てきます。
リーグ優勝後には上級生への感謝を話し、オーストラリア遠征後にはOBやスタッフ、旅費を出してくれた両親にも感謝を伝えていました。
大学4年時に書いた野球人生の振り返りも「仲間に恵まれた15年」という題名です。
現在のTeNY公式プロフィールにある座右の銘は、「出会いは一瞬、繋がりは一生」。
大学時代の文章を読んでみると、この言葉も本人の考え方とどこかつながっているように感じられます。
蛯原大河の学歴はアナウンサーの仕事にどうつながった?
蛯原大河さんは現在、TeNYテレビ新潟のアナウンサーとして活動しています。
父が日本テレビの蛯原哲アナウンサーなので、幼い頃から同じ仕事を目指していたと思われることもありそうです。
ただ、実際にはそう単純ではありませんでした。
父は日本テレビの蛯原哲アナウンサー
蛯原大河さんの父は、日本テレビの蛯原哲アナウンサーです。
1997年に日本テレビへ入社し、スポーツ中継を中心に長く活躍しています。
大河さん自身も、父が野球経験者だったことを明かしています。
小学生時代には、父と一緒に牽制球を練習していました。
スポーツが身近な家庭で育ったことは、大河さんが長く野球を続けるきっかけの一つだったのでしょう。
ただし、子どもの頃からアナウンサーだけを目指していたわけではありません。
父・哲さんによると、大河さんはもともとスポーツに関わる仕事をしたいと考えており、アナウンサーを志すようになったのは大学3年の就職活動の頃でした。
大学3年で「実況がしたい」と考えるようになった
大河さんからアナウンサーになりたいと聞いた父・哲さんは、仕事の大変さや、今後も「蛯原アナの息子」と見られる可能性があることを伝えたそうです。
それでも、大河さんの「実況がしたい」という気持ちは変わりませんでした。
ここまで学生時代をたどってみると、この進路にも自然な流れがあります。
小学2年生から約15年間野球を続け、高校では公式戦に出場。
大学ではスポーツ科学を学び、準硬式野球部では選手だけでなく、副将やデータ班も経験しました。
スポーツをする側だけではなく、分析したり支えたりする側からも見るようになりました。
その先で「スポーツを伝える仕事」に興味を持ったと考えると、現在の仕事まで一本の線でつながって見えてきます。
2026年現在はTeNYテレビ新潟で活動
蛯原大河さんは2025年4月にTeNYテレビ新潟へ入社しました。
現在は「夕方ワイド新潟一番」「ZIP! NIIGATA」「新潟一番サンデープラス」などに出演しています。
公式プロフィールでは、オイシックスやアルビレックスの試合観戦も趣味として挙げています。
入社後には、それまで詳しくなかったサッカーについて高校年代からJリーグまで勉強している様子や、地元の野球チームのスコアを記録している姿もテレビで紹介されました。
学生時代と少し似ていますね。
知らないことがあれば、そのままにせず勉強する。
大学では学業と野球を両立しようとし、社会人になってからは仕事に必要な知識を増やそうとしています。
学生時代に身についた学び方は、今の仕事にも続いているようです。
蛯原大河の学歴で誤解しやすいポイント
蛯原大河さんについては、大学時代の情報が比較的多く残っています。
その一方で、確認できないこともあります。
ここは、分かっていることと推測を分けて見ておきたいところです。
- 蛯原大河の出身小学校はどこ?
-
具体的な学校名は公表確認できていません。
小学2年生から東京都練馬区の少年野球チームに所属していたことは本人の文章から確認できますが、練馬区で野球をしていたという情報だけから特定の小学校を決めつけることはできません。
そのため、出身小学校は不明とするのが自然です。
- 成城学園は大学付属校なの?
-
蛯原さん本人は、大学時代のインタビューで出身高校を「大学の付属校」と表現しています。
一方、成城学園中学校高等学校は、学校の成り立ちとしては大学付属の中高ではないと説明しています。
ただし、成城大学への推薦進学制度はあります。そのため「成城大学への推薦進学という道もある中で、早稲田大学を一般選抜で受験した」と考えると分かりやすいでしょう。
- 大学のゼミや卒業論文は分かっている?
-
早稲田大学スポーツ科学部へ進学したことや、スポーツ科学を学びたくて同学部を選んだことは本人の発言から分かっています。
ただし、所属していたゼミや卒業論文の題名までは確認できません。
オーストラリア遠征の事前学習ではメディアやテレビについて発表していますが、それだけで「大学ではメディアを専門に学んでいた」とすることもできません。
分からないところは無理に埋めず、確認できる情報だけを見るほうがよさそうです。
蛯原大河のプロフィール
最後に、学歴とあわせて基本プロフィールも見ておきましょう。
TeNYテレビ新潟の公式プロフィールによると、蛯原大河さんは2002年10月16日生まれ。
埼玉県生まれ、東京都育ちです。
- 名前
-
蛯原大河(えびはら・たいが)
- 生年月日
-
2002年10月16日
- 出身
-
埼玉県生まれ・東京都育ち
- 出身中学校
-
成城学園中学校
- 出身高校
-
成城学園高等学校
- 出身大学
-
早稲田大学スポーツ科学部
- 学生時代
-
準硬式野球部・副将
- 特技
-
書道8段
- 勤務先
-
TeNYテレビ新潟
趣味には、オイシックスやアルビレックスの試合観戦、カラオケ、ゴルフなどを挙げています。
座右の銘は「出会いは一瞬、繋がりは一生」。
学生時代の仲間や周囲の人への感謝をよく口にしていたことを考えると、蛯原さんらしい言葉ですね。
蛯原大河の学歴まとめ
蛯原大河さんの学歴は、成城学園中学校、成城学園高等学校を経て、早稲田大学スポーツ科学部へ進学という流れです。
出身小学校の学校名までは公表されていません。
ただ、小学2年生から東京都練馬区の少年野球チームで野球を始め、大学4年まで約15年間続けていたことは本人が明かしています。
- 成城学園中学校へ中学受験で進学
- 中学3年時には野球部の副将を経験
- 成城学園高等学校では3年間サードとしてプレー
- 高校2年時には西東京大会で2安打
- 成城大学への推薦進学ではなく早稲田大学を受験
- 早稲田大学スポーツ科学部へ一般選抜で進学
- 大学1年次には体育各部所属学生の学業成績上位10%に入る
- 準硬式野球部で選手、データ班、副将を経験
- 大学3年時には東京六大学秋季リーグ優勝とオーストラリア遠征を経験
中でも興味深いのは、中学受験の頃には「大学受験をしたくない」と考えていた少年が、高校生になると自分から早稲田大学を目指したところです。
スポーツ科学を学びたい。
早稲田大学で野球を続けたい。
そんな目標ができたことで、最初に思い描いていた進路を変えました。
大学に入ってからも、野球だけに集中していたわけではありません。
学業では1年次に上位10%の成績を残し、部活動では先輩から真面目で黙々と練習する選手と評価されています。
その一方で、野球では思うように試合へ出られない時期もありました。
そこでデータ班としてチームを支え、副将として周囲を見る立場も経験します。
そして大学3年生になると、今度はスポーツを「伝える側」へ進みたいと考え、アナウンサーを目指しました。
父が日本テレビの蛯原哲アナウンサーという点に目が向きやすい蛯原大河さんですが、学生時代をたどってみると、本人自身の積み重ねもかなり見えてきます。
一般選抜での早稲田大学進学。
学業成績上位10%。
約15年間の野球経験。
そして選手だけでなく、データ班や副将としてチームを支えた大学生活。
成城学園で野球を続けた高校生が、早稲田大学でスポーツを学び、今度はその魅力を言葉で伝える仕事へ進みました。
そう考えると、蛯原大河さんの学歴は、現在のアナウンサーとしての活動につながる学生時代だったと言えそうですね。
